文学

またもや不完全
本書『Kamikazes』は、神風特攻隊研究者である大貫・ティアニー・恵美子氏の秀作『ねじ曲げられた桜-美意識と軍国主義』(Kamikazes, fleurs de cerisier et nationalismes, 2014年、Hermann出版)の翻訳版の後に出版されたものである。「太平洋戦争末期の神風特攻隊の編成は、大日本帝国の名の下に国民を自己犠牲の精神へと向かわせるためのイデオロギー操作の最終段階であり、日本の若者を無駄な死へと至らしめた」という一貫した論調に徹している。確固たる情熱に溢れ、読みやすい文章であるが、本書には検証すべき点がいくつもあるようだ。これは少なくともプレスの間では一致している見解で、著者である日本中世史家ピエール・スイリ氏についてプレスは、彼の歴史家、物書きとしての資質を高く評価しているが、本書に少し目を通しただけでも、欠落した部分があることに気付く。
まず、特攻隊員は全員が学生ではなかったという点だ。それは、出撃地である知覧や鹿屋の元基地への未帰還者の記録がそれを証明している。そして、特攻行為が原子爆弾の投下の引き金になったことを立証するものが何もない点が挙げられる。さらに、著者は靖国神社をめぐる議論に特攻の事実を織り交ぜ、日本が過去を引きずっているとは誇張しすぎである。毎年、世代を問わず多くの人々が、戦没者を祀ったこの神聖な場所に自ら足を運んでいるのだ。本書の問題はそれだけではない。厳然たる軍事行動が技術的な観点から明確に定義されておらず、大西中将以外の参謀が関与する意思決定プロセスについては軽く触れているだけである。特攻隊員の兵士としての側面だけを取り上げ、日常生活には焦点を当てていない。出撃する特攻隊員を見送った知覧の女子学生たちの手記についても何も言及されていない。体当たり戦術の歴史についての記述もない。兵士たちのエソグラムとなるはずの手紙は捏造されている(歴史家たちはその信憑性を疑問視している)。しかし、最大の過ちは特攻隊の美意識という本書全体のテーゼで、多くの招集兵のうちのごく一部の学生の手紙から得た、非常に乏しい情報だけを根拠としていることだ。特攻行為を行動主義に根差した利他主義という観点からとらえる研究とは見解を異にしている。あらゆる点で注意深い読者たちに物足りなさを感じさせるのだ。

ジェラール・シアリー、ポール・ヴァレリー・モンペリエ大学 比較文学教授。クリスチャン・ケスレー、歴史家、東京アテネ・フランセ講師、大学教員、近刊書:『Les Kamikazes, entre Armes et Lettres』(Tallandier出版)。(仮:日本の儒教と保守主義――安岡正篤の思想遍歴)』ボルドー大学出版、エディ・デュフモン、24€



海の流刑者
小林多喜二の『蟹工船』の背表紙は、それ自体が小説であると言ってもいい。彼の一生は波乱万丈であった。小林多喜二は作中の人物たちと同じく貧しい環境に育った。20世紀初頭、著者はカムチャッカ沖へ蟹漁に出る工船・博光丸の闇を描きながら、自ら船に乗り込んだ。そして、私たちを蟹工船へと誘う。艦長をも恐怖に陥れる監督、浅川の印象は強烈である。貧しさゆえに騙されて連れてこられた乗組員たちの姿が、驚くほど生々しく描かれている。失われた男たちに襲い掛かる波のうねりの山と谷の描写が素晴らしい。著者の共産主義者としての野望によって物語が狭められることはない。憎むべきものして教え込まれてきた共産主義者のロシアの農民の家族と乗組員たちが出会うシーンはお決まりのお涙頂戴になりがちだが、心揺さぶられるものがある。「プロレタリア文学」の旗手のひとりである小林多喜二は、読者には活動家としてよりも作家として認識されている。そのため2008年、国内で『蟹工船』が再びブームになり、若者たちは作品の中に自分たちの姿を見出した。博光丸の船内では、作家は全く無力であり、同時に不可欠でもある類まれな存在となる。彼は人々の灯台であり、戦前の知識人や労働者を照らす光であった。当時の政権は彼の才能を認めていた。しかし1933年に特高警察に逮捕され、拷問を受けて築地警察署内でその生涯を閉じた。彼の内にあった苦悩を、私たちは窺い知ることはできない。

小林多喜二『蟹工船』(Allia出版)。

このページをシェアする Share on FacebookShare on TwitterShare on Linkedin